GLAYのドラマーと言えば、25年もGLAYサウンドを支え続けてきた永井利光氏。
GLAYは永井氏と出会うまで、何人ものドラマーと活動し、音楽活動の厳しさを経験してきました。
- TERU(結成時)
- SHINGO(ベースからの転向)
- ISO(高校生)
- AKIRA(正式ドラマーとしては最長期間の在籍)
- マイク・ベアード(デビューシングル「RAIN」)
- 湊雅史(3枚目のシングル「彼女の“Modern…”」)
- そうる透(デビューアルバム『SPEED POP』)
- NOBUMASA(最後の正式ドラマー)
- 永井利光(現サポートドラマー)
合計9名にも及びますが、それぞれのストーリーが何ともドラマチックなのです!
そこで今回の記事では、GLAYの波乱万丈だったドラマー遍歴をご紹介します。
目次
①初代ドラマーはTERU!?
GLAYは1988年、当時高校2年生のTAKUROが幼なじみのTERUを誘い、北海道函館市で結成されました。
TERUは聖飢魔IIのコピーバンドでドラムを担当していた経験があり、GLAY結成時はドラマーとして加入することになります。
TERUのドラムの腕前は?
1998年に発表された「誘惑」のカップリング曲である「 Little Lovebirds」は、TERUが作詞作曲。
さらにスタジオ版のレコーディングでは、ドラムも担当しました。
ボーカリストとしての才能を見いだされたTERU
ドラマーとしてGLAYに加入したTERUですが、すぐに転機が訪れます。
ボーカルの入っていないデモテープにTERUが何気なく声を吹き込んだところ、その歌声にTAKUROは衝撃を受けました。
そしてTAKUROの説得により、TERUはボーカリストへと転向します。
なかなか安定しなかったドラマー
後にHISASHIを加えた高校時代のGLAYは、地元函館の人気バンドとなりました。
そして1990年の春、高校を卒業したTERU、TAKURO、HISASHIはプロを目指し上京します。
しかし函館と違い、東京でのGLAYにはコネがありません。
特に苦労したのはドラマー探しで、ドラマーが固定されなかった期間は2年以上にもおよびました。
そんな1990年の秋、GLAYはオーディション番組『三宅裕司のいかすバンド天国』に出演。
②ベーシストSINGOがドラムに転向
1991年、GLAYのドラマー探しはさらに困難を極めます。
やっとの思いで見つけたドラマーも、すぐに辞めたり連絡がつかなくなったりしていました。
いざというときは、当時のベーシストSHINGOがドラムを演奏し、HISASHIがベースを演奏することで何とか、ドラマー不在のライヴを乗り切っていました。
③高校生ドラマーのISO
1992年、音楽雑誌のメンバー募集により高校生のISOが参加。
ISOの加入により、SHINGOとHISASHIは本来のポジションに戻ります。
④AKIRAの加入
1992年6月、AKIRAが加入したことで、GLAYの苦しかったドラマー探しは終わりを告げます。
様々なバンドでヘルプをしながらプロを目指していたAKIRAはGLAYの曲に注目し「俺がドラマーになったらこのバンドはもっと良くなる」と、TAKUROに自分を売り込みました。
TAKUROはドラム経験の浅いISOに満足していなかったこともあり、AKIRAの加入を認めます。
ISO本人はTAKUROの意見を素直に受け入れましたが、厳しい決断をしたTAKUROは、ISOの家族から平謝りをさせられてしまいました。
ヴィジュアル系ドラマーの定番を押さえたAKIRAのスタイル
AKIRAは「LUNA SEAやデランジェの影響を受けている」と公言しています。
エフェクトシンバルとロートタムを並べたドラムセットを、肌を見せない衣装で表情を変えずクールに演奏する
このスタイルは、当時のテクニカルなヴィジュアル系ドラマーの定番でした。
AKIRA脱退
実績を重ねたGLAYはYOSHIKI設立の大手インディーズレーベル「エクスタシー・レコード」に注目され、YOSHIKI自らがプロデュースするバンドとして一気に知名度を上げました。
しかしエクスタシー・レコードから課せられた厳しいスケジュールと、変化していく音楽性にAKIRAは違和感を持ち、メジャーデビュー直前にGLAYを脱退します。
⑤⑥⑦『SPEED POP』では大物ドラマーが参加
AKIRAが演奏した曲も収録されていましたが、
メジャーデビューアルバム『SPEED POP』では、
- そうる透氏
- 湊雅史氏
- マイク・ベアード
など、超一流のセッション・ドラマーが参加しています。
⑧NOBUMASAが正式メンバーに
『SPEED POP』のレコーディング終了後、ライヴツアーでサポートドラマーを務めていたNOBUMASAを正式メンバーに迎えます。
NOBUMASAは温厚な人柄で、ドラム演奏の技術もメンバーから認められました。
NOBUMASA解雇
GLAYのメンバーに実力を認められたNOBUMASAですが、GLAYの所属事務所は解雇を言い渡します。
そうる透氏などの超一流ドラマーを起用できるほどの力を持っている所属事務所にとって、キャリアの浅いNOBUMASAを起用することはリスクに感じたのでしょう。
⑨永井利光氏を迎え、GLAYはブレイク
「GLAYに最もふさわしいドラマー」として所属事務所から紹介されたドラマーこそ、現サポートドラマーの永井利光氏です。
当時から永井氏は氷室京介のサポートメンバーとして知名度を獲得している、大物セッション・ドラマーでした。
永井氏はGLAYのセカンドアルバム『Beat Out!』から参加。アルバムオープニング曲「More than Love」のイントロで、いきなり存在感の大きさをアピールします。
永井氏の圧倒的な信頼感
永井氏のレコーディングに対する熱心な姿勢、演奏技術はGLAYのサウンドを確実に向上させ、「グロリアス」のヒットでGLAYは一躍有名になります。
『Beat Out!』はGLAY初のオリコン1位を獲得する作品となりました。
これらの活躍により、GLAYにとって永井氏はなくてはならない存在となり、一時は「GLAYの正式メンバーになってもらいたい」との要望もありました。
しかし、永井氏は「4人の世界観を大切にしたい」と丁重に断ります。
それからも変わらず、正式メンバーさながらの強い絆でGLAYをサポートし続けています。
まとめ:プロなら所属事務所から認められなければいけない!?
今回はGLAYのドラマー遍歴を振り返ってみました。
GLAYは力強さと優しさを併せ持つ、究極の音楽を目指し続けているバンド。
GLAYのサウンドを表現することはドラマーにとって、実はかなりの難題なのかもしれません。
正式メンバーだったAKIRAとNOBUMASAは所属事務所の意向もあり、GLAYを離れていきました。
しかし、ドラマーとしての実力はメンバーからもファンからも認められていました。
これからプロのドラマーになろうと腕を磨いているあなたにとって、GLAYのドラマー遍歴を知り、プロの厳しさを知ることはプラスになります。
今回の記事が少しでも参考になりましたら、とてもうれしいです!!