今回の記事では、日本で最も有名なアーティストの一人であるYOSHIKIの半生に注目しました。
YOSHIKIさんの活動は語るに語りきれませんが、
- 音楽をたしなむ一家に生まれたYOSHIKI(幼少期)
- ロックに魅了され、ドラムを始める(学生時代)
- 「X」結成は高校2年生のとき
- メジャーデビュー時のメンバーが揃ったX
- プロデューサーとしてのYOSHIKI
- X JAPANの解散とHIDEの死
- X JAPAN再結成でドラマーYOSHIKI復活
- もはや伝説?未だ語り継がれるYOSHIKI数々の逸話
と、年代別に8部構成でまとめました!
目次
①音楽をたしなむ一家に生まれたYOSHIKI
音楽一家に生まれる
YOSHIKIは1965年、千葉県にある老舗呉服店の長男として生まれました。
- 祖母は「琴」
- 母親は「三味線」
- 父親は「ジャズピアノ」
と、楽器演奏をたしなむ一家で育ち、YOSHIKIは4歳からクラシック・ピアノを弾き始めます。
中でもYOSHIKIの父親は、YOSHIKIに楽器を買い与えたり、クラシック音楽のレコードを聴かせてあげたりと、音楽との関わりを与えてくれました。
この頃に、ドラムではなく幅広い音楽に触れたことが、後のYOSHIKIさんの基礎となっていきます。
そして、9歳になる頃には自分で作詞作曲をし始めます。
父がYOSHIKIに与えた「光」と「闇」
そんなとある日、YOSHIKIが小学校5年生のときに父が他界してしまいます。
死因は自殺。
原因は明らかにされていませんが、帰宅した際には既に「父は布団で寝かされていた」そうです。
YOSHIKIは父親を溺愛していた反動から取り乱してしまい、心にも相当な傷が残ったと後に語っています。
しかし、この壮絶な体験をYOSHIKIは音楽へと昇華させていきます。
- Tears
- 紅
- ENDLESS RAIN
など、父親への思いを歌詞にのせたTearsをはじめ、X JAPAN代表曲でも度々当時の思いを回想させるメッセージが含まれた曲を生み出してきました。
②ロックに魅了され、ドラムを始める
ドラムに熱中。幼なじみToshlとバンド結成
YOSHIKIは11歳でドラムセットを手にし、自身の破壊衝動をぶつけるかのように、ドラムを叩き続けました。
そして、幼なじみのToshlとX JAPANの前身となるバンド「DYNAMITE」を結成。
中学進学後「DYNAMITE」は「NOISE」に改名。
レッド・ツェッペリンなどの、洋楽ハードロックのコピーを中心に演奏していきます。
YOSHIKIのドラムに影響を与えたのは、ピーター・クリスとコージー・パウエル
YOSHIKIとKISSの出会いは、先程の対談動画でもわかるように10才の頃。
そしてYOSHIKIはKISSのピーター・クリスに影響を受けドラムを始めました。
さらに、レインボーの曲を演奏するために14歳でツーバスのドラムセットを買ってもらい、高校進学後も「NOISE」はコピーバンドとして活躍していきます。
【コージー・パウエル】スティックを持った渡り鳥!ハードロック界の伝説的ドラムヒーロー
③「X」結成は高校2年生のとき
学業か?ドラムか?
「X」結成後も活動の幅を広げ、地元でも有名なバンドへと成長。
しかし、高校生ともなると、将来を考える年齢です。
そのためYOSHIKIは、音楽大学に進学するための準備をしていました。
ですが、ここで大きく人生が動きます。
アマチュアバンドのコンテストでYOSHIKIとToshlがそれぞれ個人賞を獲得したことがきっかけで、バンドを続ける道を選択。
YOSHIKIはToshlと共に上京し、本格的なバンド活動を開始します。
「関東三大粗大ゴミバンド」!?
メジャーデビュー時のメンバーが揃う以前のXは、数々の問題行動を起こして注目を集めていました。
ライブハウス内で火を吹き、居酒屋で乱闘騒ぎを起こして破壊をくり返すなど…。
次第にXは、同じ拠点で活動している競合バンドから、
- X加入前のHIDEが率いていた「SAVER TIGER」
- TAIJIが在籍していた「DEMENTIA」
と共に「関東三大粗大ゴミバンド」と呼ばれるようになったのです。
「ゲイリー・ヨシキ」としてドラムが注目される
さらにXの知名度アップを狙ったYOSHIKIは、当時のヘヴィメタル界では禁じ手とされていた「バラエティ番組への出演」を決意します。
そしてYOSHIKIはバラエティ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』に「日本一のヘビメタ男 ゲイリー・ヨシキ」として出演。
Toshlも「オジー・アキラ」として出演しました。
YOSHIKI出演の反響は大きく、後続のヘヴィメタル・バンドも次々と番組に取り上げられ、プチメタルブームを巻き起こします。
しかしヘヴィメタル界では、反対意見もありました。
自分たちの音楽がお笑いのネタにされる原因を作った張本人として、YOSHIKIに対するアンチが増え始めたのです。
④メジャーデビュー時のメンバーが揃ったX
PATA、HIDEの獲得もあり、メジャーデビューへ
XはYOSHIKI、Toshl、TAIJI、PATAの4人編成で活動していましたが、SAVER TIGER時代から何度も口説き続けていたHIDEを獲得します。(この時点でPATAは、まだサポートメンバー)
そして新加入のHIDEは、Xをツインギター編成にすることを提案。
YOSHIKIは同時に、SAVER TIGER時代の仲間だったREMを誘いますが、REMは引退を決意していたために断念。
そこで、XはまたもやPATAをサポートに迎え、ライブ出演をしました。
HIDEとPATAのツインギターに手ごたえを感じたYOSHIKIは、PATAに「このまま一緒にやろうよ」と言い、PATAも正式メンバーへのオファーを受けます。
1987年の春、Xはメジャーデビュー時のメンバーを揃えました。
どこへ行っても異端児だったYOSHIKI
Xは元々、速いリズムににギターの速弾きとハイトーンボーカルを組み合せる、正統派に近いヘヴィメタルバンドでした。
しかし既成の概念にとらわれない考えのYOSHIKIは、Xのヘヴィメタル的なサウンドに、ハードコアやパンクロックの要素も取り入れる音楽を目指します。
常に斬新な考えを持ち、実行するYOSHIKIはヘヴィメタル界の中でも異端児でした。
⑤プロデューサーとしてのYOSHIKI
インディーズ・レーベルを設立し、後輩バンドを育てる
YOSHIKIは1986年、自分たちでXのレコードを制作をするためにインディーズ・レーベル「エクスタシー・レコード」を設立。
そして、シングル「オルガスム」をリリース。
のちに「エクスタシー・レコード」は本格的な会社組織となり、
- LUNA SEA
- ZI:KILL
- GLAY
など、多くの有名バンドがアルバムをリリースしました。
中でもGLAYは「YOSHIKI自らがプロデュースするバンド」として注目を集め、YOSHIKIが新たに設立したメジャー・レーベル「プラチナム・レコード」からのメジャー・デビューを果たします。
とにかく宣伝に力を入れるYOSHIKIのスタイル
X JAPANに限らず、YOSHIKIはとにかく宣伝活動に力を入れるスタイルで、経営者としての実力も発揮していました。
『元気が出るテレビ!!』への出演も「いい曲を作っても、聴いてもらえなければ意味が無い」といった考えから思い立ったものです。
YOSHIKIが立ち上げたインディーズ・レーベル「エクスタシー・レコード」は、所属バンドがアルバム一枚リリースするのに数千万円もの広告費をかけることで有名でした。
Violet UKとは?
YOSHIKIの「バンドではできないことを表現したい」という思いから発足した音楽プロジェクト。
その構想は、X JAPANの2ndアルバムをロサンゼルスでレコーディングしている最中に誕生しました。
活動開始まで14年半もの歳月をかけたViolet UKは、
- 人種差別の垣根を超え
- 怒りの赤と哀しみの青を混ぜた色を表現し
- 音楽ジャンルに囚われない
壮大なプロジェクトで、全世界を対象としています。
音楽は”YOSHIKIらしさ”が所々垣間見れますが、X JAPANでは味わえない彼の音楽を楽しむことができます。
「美」への徹底的なこだわりと、ドラムパフォーマンス
X JAPANで、まず目に行くのが「見た目」です。
カリスマと称されるHIDEと共に、X時代からビジュアル面でも徹底的なこだわりがありました。
またYOSHIKIは、ドラムに破壊という「美」をとり入れたことでも有名です。
「ドラムセットを破壊する」という過激なパフォーマンスのため賛否両論ありますが、X JAPANのLIVEの醍醐味でした。
個人的には「1回LIVEを生き物ととらえ、自ら壊すことで幕を閉じる」という一種の美学かと思っていましたが、後にマツコさんとの対談で「ドラムメーカーから頼まれて壊していた」と衝撃の告白をされていました笑
⑥X JAPANの解散とHIDEの死
電撃解散で幕を閉じたX JAPAN
絶頂期を迎えたX JAPANですが1997年、音楽的方向性の違いでToshlが脱退。
同年9月に解散を発表し、12月31日に出演した『紅白歌合戦』をもってX JAPANは活動を終えました。
しかし、喧嘩別れではありません。
YOSHIKI自身後に語っていますが、Toshlから「バンドを辞めたい」と言われたとき、心のどこかで自分にも「バンド活動から離れたい」という思いがあった、と告白しています。
また「日本では大スターだけど、海外では全く有名ではない」という葛藤から、気持ちが一人だけ空回りしていたと当時のプレッシャーに関しても告白されていました。
早すぎた「HIDEの死」は社会現象にもなった
解散後のXはHIDEの呼びかけで「新しいX JAPAN」を立ち上げる準備をしていました。
そんな最中の1998年5月、ソロ活動絶頂期にあったHIDEが他界。
音楽だけでなく、ファッション界でもカリスマ性を発揮していたHIDEの死は、ファンだけでなく日本の音楽シーンに多大な影響を与えました。
しかし、HIDEはまだファン一人一人の心の中で生きています。
親交のあった布袋さんは、今でも追悼歌としてLIVEで披露されていますし、2018年には数々の著名アーティストがカバーした追悼アルバムも販売されました。
また、現在でもLEMONedでHIDEグッズが購入できたり、HIDEミュージアムが開催(不定期)されたりと、彼の愛されっぷりは止まることを知りません。
⑦X JAPAN再結成でドラマーYOSHIKI復活
X JAPAN復活の背景
2007年、ヒーリング歌手として活動していたToshlにX JAPAN再加入のオファーが何度もあり、Toshlも「X JAPANも癒しの音楽として受け入れる」と、再加入を決心します。
そして、ギターにLUNA SEAのSUGIZOを迎え、完全復活を遂げました。
LIVEではギターアンプの上にHIDE人形が置かれたり、ホログラムを使ってHIDEとのLIVEを再現したり、HIDEと共に成長し続けるX JAPANを今後も見逃せません!
音楽以外の分野でも活躍するYOSHIKI
2007年に再結成されたX JAPANは全世界を相手にしながらも、メンバー個人がバラエティ番組に出演するなどの親しみやすさを見せ、音楽界だけではなく、多くの分野から注目される存在となっています。
YOSHIKIはカリフォルニア州ロサンゼルスを拠点に活動していますが、カリフォルニア・ワインを愛するYOSHIKIは2017年、最高の醸造家とオリジナルブレンドのワインを造りました。
「Y by YOSHIKI」と名づけられたプレミアムワインは発売された途端に、即完売。
より気軽にワインを飲んでもらいたいと考えたYOSHIKIは2018年、カジュアルシリーズのワインも完成させ、多くの人々に飲まれるようになりました。
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⑧もはや伝説?未だ語り継がれるYOSHIKI数々の逸話
学生時代は「頭の良いヤンキー」?
YOSHIKIの人間離れした功績を見れば一目瞭然ですが、学生時代から将来を見越した計画的な行動を徹底されていました。
- ピアノ
- ドラム
- 英語
はどんなことがあっても欠かさず勉強。
YOSHIKIは高校生の頃、ヤンキーだった時期には「集会には英単語帳を欠かさず持ち歩いた」と語っています。
さらにピアノやドラムの練習をする時は、集会自体を断ったと言います。
高校生の頃は誰しもが、人間関係を優先するあまり周りに流されてしまったり、価値観を左右されてしまうものですが、学生時代からミュージシャンになるという夢を描き、必要な行動をとってきたYOSHIKIさんの人間性が伺えるお話ですね。
「カレーが辛い事件」の真相
YOSHIKIを語るうえで欠かせない「カレーが辛い事件」。
これは1991年、Xが初の東京ドーム公演を行う前日に起きたエピソードです。
YOSHIKIは行きつけの店のカレーを注文するよう、頼みました。
しかし楽屋には、大量の汗が出るほどの辛いカレーが届いてしまいます。
YOSHIKIは運ばれてきたカレーを「いつものカレー」と思い食べてしまい、あまりの辛さに貧血を起こした、と言います。
激怒したYOSHIKIはテーブルをひっくり返し、リハーサルをせずに帰宅。
この事実は数年後に出演した音楽番組でYOSHIKI自らが認め、2004年には当時の辛さを再現した商品「X JAPAN YOSHIKI伝説 キレ辛カレー」が限定発売されました。
「シャワーが熱い事件」の真相
「カレーが辛い事件」と同時に語られる「シャワーが熱い事件」。
こちらはYOSHIKIが名カメラマン篠山紀信による撮影を控えたときに、起こりました。
「撮影前にシャワーを浴びようとしたYOSHIKIが熱湯しか出てこないシャワーに不満を抱き、帰った」というエピソードですが、YOSHIKI本人は「軽いやけどを負い、全身が真っ赤になってしまったために帰った」と語っています。
「カレーが辛い事件」「シャワーが熱い事件」はYOSHIKIにとっても災難だった出来事です。
しかし周囲のYOSHIKIに対する「だからといって、何も帰らなくても・・・」といった気持ちが、有名エピソードにしてしまったのでしょう。
辛い過去を経験したYOSHIKIだからできること
ご自身の壮絶な経験から、遺児救済への支援にも精力的に活動されています。
それだけに止まらず、チャリティー番組への積極的な出演や、東日本大震災の際の募金など、日本がピンチの時には誰よりも早く援助の手を差し伸べてくれます。
特に、X JAPANの曲で救われた人も多くいらっしゃると思います。
- 喜怒哀楽を全開にした歌詞
- 感情を揺さぶるインスト
単にかっこいい曲ではなく、YOSHIKIの人生体験が集約された1曲1曲は唯一無二であり、きっと同じような体験をした人に勇気と希望を与えてくれるのでしょう。
ピアノの腕前は「スパルタ講師」のおかげ?
YOSHIKIさんの第二の代名詞として知られる「ピアノ」。
X JAPANをはじめとした数々の有名バンドでの作曲を手がけるだけでなく、1999年には「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」で奉祝Anniversaryを演奏し、名実ともに全世界に轟かせました。
ここまでのレベルとなると、ご本人の努力と才能の結晶であることは間違い無いのですが、実は幼少期のYOSHIKIに指導した「スパルタ講師」のお陰でもあると言えます。
そのスパルタ講師からは「転ぶときは手からじゃなく、頭から!」との教えを受けたそう。
ピアニストにとって指は命ですから、当然と言えば当然かもしれませんね…w
そして、YOSHIKIはその教えを守り続け、「上手い・下手」という無意味な指標に囚われない日本を代表するミュージシャンとなりました。
YOSHIKIの今後は?
あまりにも多くのことを成し遂げたアーティストのYOSHIKI。
常に新鮮な気持ちを絶やさないYOSHIKIの行動力は超人的ともいえます。
YOSHIKIは新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、2020年はロサンゼルスにとどまっていましたが、2020年度の『紅白歌合戦』では世界的アーティストと日本を代表するアーティストと共演し、世界中を勇気づけるメッセージを送りました。
慈善活動まで活動される姿には、本当に日本の宝だなと感じますね。